駑馬十駕(どばじゅうが)
才能の乏しい人も努力をすれば、才能豊かな人追いつくことができるということ。
「駑馬」は足の遅い馬。「駕」は馬が車を引いて進む一日の行程。
駑馬でも十日歩き続ければ駿馬が一日で走る千里の道を行くことができるという意。
中国の儒学者 荀子の勧学に「驥一日而千里、駑馬十駕、則亦及之矣」とある。
驥(き)は一日(いちじつ)にして千里なるも、駑馬も十駕すれば則ちまたこれに及ぶ。
驥は名馬のこと。
昨日のお稽古で、
「書はやはり才能がものをいうのでしようか?私は、才能がないので・・・」
と会員の方から弱音が聞かれました。
ふと、馬年ということで、
「今年は駑馬十駕の精神で頑張ります」
というHさんの年賀状を思い出しました
私も才能が乏しく、自分自身に苛立ちを感じています。
どうして、こんな作品しか書けないのか・・・と。
いままでず〜と、才能がないと感じてきたけれど、
それでも書を諦めずに続けてました。
「駑馬」である私が、諦めずにやっていることによって、
いずれは、「驥」となることができるのでしょうか?
いや、「駑馬」のままでよいのです。
「十駕」すること、書を続けること、続けられることに
価値があると思っています
身近な方でも、健康の理由で続けられなかったり、
経済的な事情で諦めざるを得ない方を見てきました。
その方々の分までと思います。
このところ、現日会春季展の作品を書いています。
ちっとも思うように書けない悔しさで、髪の毛をかきむしり、
「アー」と大声を張り上げて・・・
作品の一部「倦」
この文字は、飽きていやになるという意味です。
理想には程遠く、苦しみながらも、書き続けます。
できること、続けられることの幸せを思いながら・・・